
このブログでは、たびだび「ゲーム性」云々ということを書いています。
「ゲーム性」という言葉だけでは、私の考えていることが伝わらない気もしてきましたので、今現在、私が考えている「ゲーム性」について、書いてみます。
このブログで書いている「ゲーム性」というのは、だいたいは今回の記事に当てはまる意味で使っていると思ってください。
もし、このブログが長く続くのであれば、私の考え方とともに、私の使う「ゲーム性」の意味も変化していくかもしれませんが……。
「ゲーム性」という言葉だけでは、私の考えていることが伝わらない気もしてきましたので、今現在、私が考えている「ゲーム性」について、書いてみます。
このブログで書いている「ゲーム性」というのは、だいたいは今回の記事に当てはまる意味で使っていると思ってください。
もし、このブログが長く続くのであれば、私の考え方とともに、私の使う「ゲーム性」の意味も変化していくかもしれませんが……。
私の最も遊んだ回数の多いアナログゲームは、TRPGです。
続いてTCG。
ボードゲームは、年に数回、多くて10回程度といった感じです。
なので、当然ながら偏りはありますので、ご了承ください――だいたい、このブログ、『六門世界RPGセカンドエディション』が主体ですので、TRPGなり六門2ndに偏るのは、至極当然でして(汗)。
ちなみに私、そもそも個人の垂れ流しているブログ記事に、公平性や俯瞰視点や客観性は、求めるだけ無駄だと思っております(苦笑)。
■結論「ゲーム性=競技性≒公平性」
私の使う「ゲーム性」という言葉は、簡単に言うと「競技性」を表しています。
「真剣に勝敗を競う意味」とも言い換えられます。
スポーツなどを見ればわかりますが、だいたいにおいて競技性の高い物は、厳密なルールが存在していたり、第三者である審判がいる物です。
そういった意味合いでは、私の思う「ゲーム性」は、「公平性」という意味合いも含んでいます。
■TRPGは「ゲーム性」が低い
おそらく、「競技性が高いこと」やら「真剣に勝敗を競う意味のあるもの」やらをゲームのセールスポイントにおいたとしても、日本のTRPGゲーマーは「そんな堅苦しくて殺伐とした、楽しくなさそうなのは嫌だなぁ」という反応を示す人が多いでしょう。
少なくとも、TCGゲーマーやボードゲームゲーマーより、明らかに嫌悪感なり拒絶感を示す比率が高いだろうと思います。
なぜなら日本で広がったTRPGは「勝敗を競うものでは無い」という側面が大きいからです。
日本に限らず、そもそもRPG自体が「勝敗を競うものでは無い」ということが、大きなプラス要因となって、コンピューターゲームとしても普及していったという経緯があると思います。
要するにTRPGの「ゲーム性」は、TCGやボードゲームの比にならないほど、低いのです。
コンピュータRPGも同様で、対戦ゲームやアクションゲームやシューティングゲームに比べれば、明らかに「ゲーム性」が低い物が多いでしょう。
そのため、現在の日本で主流となっているRPGの「RPGらしさ」ということを突き詰めていくと、極論では「ゲーム性は必要ない」という方向へ辿り着くと思います。
というわけで、次回はTRPGに、なぜ「ゲーム性は必要ない」という考えになって行きやすいのか、考えてみます。
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